御祭神 日本武尊
貞元親王(さだやすしんのう)
善淵王(よしぶちおう)
海野広道公
創建年 不明
旧社格 郷社
住 所 長野県東御市本海野1204
祭 礼 春の大祭(4月の第2日曜日),秋の大祭(11月23日、同日に海野宿ふれあい祭りを開催),他
海野宿の東の入り口には白鳥(しらとり)神社があります。
白鳥神社は本海野の産土神であり、海野氏やその子孫である真田家の氏神様でもあります。
御祭神をみると、日本武尊が祀られてる事からわかる様に、当地にも日本武尊の伝説が残ります。
日本武尊は東征後、本海野を訪れたました。
その際、この地が肥沃な土地である事に感心します。
そして、あの海(千曲川?)まで土地に成れば、さらに豊かな土地になると言ったと伝わります。
ここ話しから、当地は『海野』と言われるようになったと伝わります。
日本武尊が没すると、白鳥となり、東国へ飛び去る際にこの地にも舞い降りました。
そこで、この地にも白鳥神社が建てられたと言われます。
時代が過ぎ、海野郷は滋野氏の宗家・海野家が支配する時代になります。
その頃に、海野家の祖である貞元親王、善淵王、海野広道公も合祀しました。
貞元親王と善淵王は滋野一族の祖です。また、海野広道公は海野の氏を称した初代当主です。
1191年頃にはに海野氏中興の祖・海野幸氏により、太平寺(現在の白鳥団地)にあった白鳥神社を現在の地へ移しました。以後、鎮守として現在まで続きます。
戦国時代には一族離散の憂き目にあいますが、子孫の真田氏が上田地域で力を取り戻し、再び崇められます。
江戸時代に入り、1622年に真田信之が松代藩に移封となると、松代の舞鶴山に分祀されます。
なお、松代に移った白鳥神社は読みが違い。『しろとり』と読みます。
どちらの神社も真田氏に厚く尊崇を受けました。
1808年には、東御市の大石出身の力士・雷電為右衛門が祭礼で使う四本柱土俵を奉納しました。
また、右写真の鯨石の噴水は江戸時代頃にはあったにではとの宮司さんのお話でした。
明治に拝殿の改装。平成になり、大改装を経て、現在の姿となっています。
さて、白鳥神社の本殿の左右には、それぞれ社があります。
東側が新海社、西側が稲荷社です。
元々は太平寺にあったのですが、明治末に白鳥神社に遷りました。
その他にも、社があるのですが、元々は本海野一帯にあった小さな祠が神社合祀の政策により、この地に集められたました。
2015年2月6日 花岡武彦 執筆
2015年8月13日 訂正・加筆・写真追加