東御市には『海善寺』という大字があります。地図で『東御市海善寺』と検索すると、かなり広い区域だとわかります。
しかし、海善寺地区には、海善寺と言うお寺はもう存在しません。
上の国土地理院の地図は海善寺地区の南側、国道18号線に近い場所になります。
他のページに滋野神社を書きましたが、それが上記の位置になります。実は「海善寺」は滋野神社の東側から金原川の西側にかけて、あったようです。
≪海善寺≫
『真田氏』の宗家である『海野氏』が祈願寺として935年5月に創建された真言宗の古い寺院でした。
開基は清和天皇の皇子・貞元親王とも、貞保親王とも言われていますが、実際に開いたのはその子・善淵王で、彼の法名より『海善寺』としました。
天延年中(973~975)になり、海野氏二代目・幸恒により海野氏館の鬼門の方角に再建。幾つもの坊を持つ、東信州随一の寺院となりました。
なお、今も小字で大門や大坊など、寺院跡の名残が地名で残っています。
戦国時代になると、海野氏は1541年に武田・村上・諏訪連合軍により一族は離散。真田幸隆などは上州へ逃延びます。
真田幸隆は後に武田の家臣となり旧領を回復。1582年に武田氏が滅亡すると、幸隆の子・昌幸は自立。1583年に上田城を築いて本拠としました。
この時期に、海善寺も上田城下に移転しました。当地での役割を終えます。
その後の海善寺地区には寺院の名残はありましたが、1742年の洪水(戌の満水)により流失したそうです。
≪海禅寺≫
真田昌幸が1583年に本拠地を上田に移した時に本海野の人々や他の寺社と一緒に上田城下へ移動します。その時に寺号も『海禅寺』に改称しています。本海野の人々は海野町を作ります。海禅寺はそこよりも少し離れた上田城の鬼門の方面に置かれる。移転後は、真田氏の祈願寺として機能します。
江戸幕府後の1622年に昌幸の子・信之が松代藩に移封になると、本海野に残っていた白鳥神社と共に海禅寺も住職を伴い移動する。
『海善寺』とは違い、『海禅寺』は上田の地に残り、現在まで続いています。
≪開善寺≫
1622年に真田信之が松代藩転封に伴い、上田より『海禅寺』住職を伴い移転する。この時に寺号を『開善寺』とした。江戸時代を通して、歴代藩主の祈願寺となる。
この時に東御市本海野の白鳥神社も『開善寺』の裏手にある舞鶴山に移動していて、『開善寺』住職は白鳥神社別当もつとめた。なお、松代の方は『しろとりじんじゃ』と読みます。
『開善寺』は寛永年間に一度焼失していますが、1650年に直ぐ再建され、今に至ります。
1660年には寺の少し山腹に現在、県宝となっている経蔵が建てられて、天海版の一切経6323巻が納められています。
本尊は地蔵菩薩で、開基した滋野親王の等身像となっています。『海善寺』から『海禅寺』を経て松代まで来たのでしょう。
残念ながら既に無住の寺院です。元々檀家が少ない事が原因の様です。管理者は埼玉県内で寺院をやっていると近くの畑で働いていた方に聞きました(2015年当時)。
また、本堂裏に庫裏があったようですが、既に潰れてしまっています(2015年に地元の方談)。
注意事項として、常時管理者はいませんので、汚さない、ゴミを放置しない、また、不法侵入しないなど、常識のある行動を取ってください。
≪白鳥(しろとり)神社≫
開善寺(長野市)
金剛樹山 開善寺(真言宗智山派)
住 所 長野県長野市松代町西条3688
御本尊 地蔵大菩薩(伝滋野親王等身像)
県 宝 経蔵
本堂すく近く、西条保育園裏手にある。1660年に建造。八角輪蔵(回転する教本を入れる棚)には天海版一切経が納められている。
2015年2月28日 海禅寺を調査
2015年3月21日 開善寺・白鳥神社を調査
2020年7月27日 花岡武彦 執筆